目川まちづくり委員会 本文へジャンプ

 当自治会は、東は下戸山、南は岡、西は小柿、北は

坊袋、川辺にあり、地名は『めがわ』と読む。

 旧東海道の街道筋にあって集落の東側には1級河川の

金勝川、またその先には名神高速道路が通過し、西側には

東海道新幹線が通過し約2Km先にはJRびわこ線草津

駅、また1Km先には国道1号線と市内の主要交通幹線が

通っている地域である。

 古く江戸時代には、街道に面して一里塚があった。この

一里塚には椋の木が植えられていて、旅人が遠方から

望めるようになっていた。

 昭和28年の台風13号には大洪水で金勝川左岸が

決壊し、目川、岡の農地が10日余り冠水し水稲が全滅

した。

 最近では、新幹線より西の区域で企業が立地し、

新しい住宅ができ、昭和45年には目川住宅として自治会も

新しく分離された。

 その後、区画整理事業が組合施行として昭和57年度〜

59年度にかけて4.95haの面積を実施され栗の木地域

として住宅を始め事業所が多く立地されてきた。



目川人口の推移
人 口(人) 世 帯 数(戸)
昭和29年12月
(町村合併時)
488 132
昭和50年 585 181
平成13年10月
(市制施行時)
1,143 385
平成19年4月1日 1,431
男:690/女:741
491
平成24年4月30日 1,985
男:968/女:1,017
718

目川ひょうたん
目川ひょうたん」の源流は、さだかではないが、恐らく江戸初期五街道のうち、最も要路とされた東海道が、ようやく隆盛をみようとする十七世紀なかばと推定される。
 もともと瓢箪は、瓜科の植物の中でも、その形状の面白さから、鎌倉・室町の頃から、いわゆる文人、墨客(芸術家)などの間に酒器や床飾りとして珍重されてきたところで、目川は東海道草津宿に接する立場(旅人の休憩所)として栄えたところで、色々な旅人の必需品を売る店や茶屋があり、その中で瓢箪は旅人のお茶やお酒などを入れる容器として旅人の必需品であったと思われ江戸時代中期以降明治頃まで当地方の農家が副業的に行う地場産業であった。
 明治三十五年(一九〇二年)頃の記録によれば、目川を中心として治田村で産出された瓢箪の数は約九千個、今日の価格で総額約壱千萬円を超えたのではないかと考えられ、中には六尺(約一八〇センチメートル)を超える大きさで一個の値段が当事の金で三十円などというのもあったと伝えられている。
目川瓢箪生産組合

目川池

 目川地域の農業用水池であるが、夏・秋の季節には

水鳥である(白サギ・かいつぶり・鴨)などが多く飛来し

自然の美しさと共に独特の風景をかもしだしております。

昔は、目川池の隣に小さな溜池もありました。


 
平成十五年一二月撮影


現在の目川の様子

一里塚跡

一里塚跡

目川立て札

目川公民館付近
(石部方面)

目川公民館付近
(草津方面)

治田郵便局

専光寺正面

専光寺側面

岡にある金勝川広域河川改修事業立て札