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目川の伝統行事


小槻大社 風流踊り(別名:花笠踊り)(五月五日) 県指定無形文化財
 滋賀県内には、全国的に有名な「江州音頭」があり、近江を代表する踊りと言えば誰でもこれを思い起こすであろう。しかし、この江州音頭がこの地に定着する以前、「風流踊り」といわれる踊りが広く分布し、それぞれのムラで個性的な踊りが祭礼に伴って踊られていた時代があった。
 本来風流という言葉は、意匠のある趣向そのものをさす語であり、人の目を驚かせる造り物や衣装など、風流本来の意匠を競うことに主眼がある。小槻大社の風流踊りも、渡御行列中に棒踊り、槌打ち、鯛釣、太鼓打ち、太鼓受け、笛吹き、鉦すりの子役たちが加わり、地元、本殿、お旅所などで踊りが披露され、祭礼の趣向を盛り上げている。子役たちは色鮮やかな衣装に花笠をつけるので別名花笠踊りともいわれる。一組だけであるが、太鼓役が主役であり、風流化された太鼓踊りともいえる。また軍配を持った音頭と女装の傘鉾持ちが華を添える。
 また周辺まで目を広げ、この祭礼を見ると、行列の中に神榊、御幣が加わる。これは、草津などでさかんに行われている、サンヤレ踊りと呼ばれる民俗芸能とよく似ていることが指摘され、興味深いものがある。
 この祭礼のもう一つの特徴は、当番村が輪番制でとり行われることである。
      山寺(子 酉 午)      岡・北原(亥 巳 寅)
      目川(辰 戌)        坊袋(未 丑)
      川辺(申 卯)        の年に当番があたる。
 これは、多くのムラが結集する郷村共同体としての特徴をそなえ、古くからこの地でおこなわれてきたことがわかる。
平成24年5月5日 目川が渡し番をつとめさせていただきました


涼み湯(湯立行事)(七月第一日曜日)
 何事もなく無事田植えが終わり、秋の取り入れが無事すむことを五穀(イネ・ムギ・アワ・キビ・マメ)豊穣の神に感謝し祈る湯立行事
【神事の内】
 幼児(赤子)の御祓い
 稲の順調な成育を祈ることにあやかって赤子の無事な成長を願うものである。
【神事】
 本殿前には紙幣をたらした注連縄
 神主が本殿前で短く祝詞を秦した後、巫子・氏子の順にお払いをし、再び本殿前に出て、祝詞を秦上、巫子が「岩戸神楽」を踊りその後、本番に「湯立て神楽」を踊ります。


百燈(九月一日ごろ)

 立春(二月四日)から数えて、九月一日ごろが雑節の二百十日にな

り街道沿いの集落では、秋の豊作を祈る百燈が行われています。

 当自治会でも目川公民館にて行っており、昔から「百燈に参っとくれ

〜ドンドン、賽銭持って参っとくれ〜ドンドン」と子供が太鼓を持って叩

きながら目川を回り呼びかけをしておりました。



2007/09/01

今年は目川夏まつりで大好評の「癒しの灯」が灯されておりました


左義長(一月第二日曜日)
 どんと焼きやどんど焼きとなど、地域によって呼び方は変わるが、小正月に行われる火祭りの行事。日本全国で広く見られる習俗。
 昔は金勝川の上流(目川池付近)/中流(現在位置、高橋付近)/下流(岡付近)に分かれて、焼け落ちるまでを競い合っておりました。
 現在では1カ所(中流)でのみ実施されており、その年に飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物や御札等を持ち寄って焼きます。
 その火で焼いたもちを食べるとその年の病を除くと言われております。また書き初めを焼いた時に炎が高く上がると字が上達すると言われております。民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされている。
 当自治区では左義長で焼かれた竹の切った物(2m弱)を持ち帰り、家内安全無病息災のお守りとして軒下などに置いておきます。


伊勢講(正月一五日前後)
 お正月の代表的な行事として、町内各地では伊勢講に関する行事が行われます。
 伊勢神宮(大神宮)は、古代には国家至貴の神として一般人の奉幣は許されませんでした。しかし、律令制の衰退とともに一般人の社寺参詣の風潮が高まり、さらに新宮祠官の間にも積極的に民衆の信仰と結びつこうとする運動があり、鎌倉時代になると民衆にとっての聖地として、各地から参宮奉納の者が増加するようになりました。
 江戸時代に入り、生産力の向上や治安の安定のなかで伊勢参りがさかんとなると、各地に伊勢講(神明講・参宮講)が組まれ、講員が旅費を積立てて神宮代参が行われるようになりました。本町内各地でも、組を中心に伊勢講が組織され、たとえば送迎は村境でやるとか、土産は講員全員に配るなど、出発・帰還・留守宅などひとつの決まりにのっとって行われました。
 ところで目川中ノ町伊勢講は、代参のくじ取りが比較的古い形を踏襲している点で貴重な存在です。
 この伊勢講は現在一四軒で講が組まれており、毎年正月一六日(最近では一五日)に宿(当番の家)に集まり会食し、代参ふたりをくじで決めます。このくじは、講員があらかじめ番号札をひき、宿主が六角形の御籤箱を振って籤をひいて代参を決めるもので、おそらく江戸時代中期ごろからおこなわれていたものと思われます。また、この講のことを記録した講帳が宝暦四年(一七五四)のものからのこされており、講の献立がよくわかります。
 江戸時代後期の寛政元年(一七八九)のくじ取りは九月四日に行われ、宿は茂兵衛宅で、四郎兵衛が代参に決まりました。食事の内容は、酒一升五合、鮒六荷、雑魚一升、醤油五合、豆腐四丁で、当日の献立は、おそらく雑魚煮と鮒の小作り、豆腐の田楽などであったと思われます。
 時代が下がり、明治元年(一八六八)のくじ取りは、いつ行われたのか記載はありませんが、宿は弥衛門宅でした。食事の内容は、揚豆腐二〇枚、豆腐九丁、雑魚五合、酒一升、醤油一升、大根、水菜、かます一三で、この日の献立は、雑魚煮とかますの焼物、大根や揚豆腐の煮物などであったろうと思います。
 このように食事内容など時代とともに変化していますが、当時としてはかなりのごちそうを食べており、庶民の最大の娯楽だったことがわかります。
当事にくらべ、伊勢講はさらに変化してきていますが、講員が集まって心の交流を深めながら会食を楽しむことには、いまも昔もかわりはありません。