目川まちづくり委員会 本文へジャンプ
石部(目川ノ里)
目川の歴史
 江戸幕府の道中奉行が管轄した五街道の一つで、江戸と京都を結ぶ大動脈であった。栗東市の区間は、草津宿と石部宿の間にあった。東海道は草津側から小柿(新屋敷)、岡、目川、坊袋、川辺、上鈎、手原、小野、六地蔵、林、伊勢落の11カ村を通過した。草津・石部の宿駅間距離は二里三五町(約11.7km)余。駅間には二つの立場が置かれていた。岡地先に置かれた目川立場と六地蔵地先に置かれた梅の木立場で、旅人へ旅行の利便を提供する施設として、幕府の道中奉行所が指定した施設である。目川立場は食事の菜飯田楽を、梅の木立場は道中薬の和中散を商った。目川と六地蔵に一里塚があり、共に椋が植えられていた。
 東海道は古代から存在したが、幾度かの変遷を経て江戸時代から現道になり、現在は大半が県道六地蔵・草津線。バイパスとして国道一号線が建設され、これに替わっている。

『伊勢参宮名所図会』の目川の様子
寛政九年刊

地区の概要
 中心部に金勝川が流れ、これに添って東海道が通る。東海道の街村で「宿村大概帳」によれば往環の長さは五町一二間(約五六九メートル)、家居三町二二間(約三六七メートル)残り片側一町五〇間(約一九九メートル)堤添いとある。江戸時代の天保郷帳によると、東目川村と西目川村という別々の村になっている。明治四年(一八七一)に二村が合併して目川村となった。
 「目川」は田上庄 芝原村の武士芝原右京進重兼が、恩賞により目川、坊袋、川辺の三村を与えられて城を目川に移した貞治元年(一三六二)九月が初見である。(郡志)
小槻大社の氏子村。県選択無形民俗文化財小杖祭り保存会五カ村の一つ。
 村高 六七六石余
  東目川村 四三三石余
  西目川村 一六五石余
  寛永(一六二四〜)    慶安(一六四八〜)  天明(一七八一〜)
  大坂定番稲垣領一六五 越後三条藩領一六三 三上藩領五九八  以後幕末に至る。
  旗本沼野領   五一一 同左

明治一三年(一八八〇)の村の姿
 面積 六一町二反二畝一五歩 内 田 四八町二反八畝一五歩
 産物 主産物は米。麦、大豆、菜種、実綿、藍葉、葉煙草あり
 特産 製茶 四二八一斤  ひょうたん 一軒二四〇〇個
 産業 農家が七六軒  傍ら樵を業とする
 牛馬 牛三二頭、馬三頭  耕転踏草に使役する
 水車 三ヶ所
 荷車 二五輌
明治四二年頃(一九〇九)

地名由来
  金勝川流域にあり集落との境目を指すことから起こった。

目川池
 東西二町二七間、南北二町、周囲八町五八間。用水溜池として使われている。

寺 院
  専光寺  真宗大谷派
        応仁元年(一四六七) 僧光念開基
 もとは真宗興正寺派の寺であったが現在は真宗大谷派の寺院。津田近江守昌国が蓮如に帰依して釈光念と名を改め、応仁元年に道場を建てたことに始まる。青地氏一族の北川左京が法道と名を改めて四世に入った。六世の慶安三年(一六五〇)に木仏安置、寺号公称許可。
  地蔵院  浄土宗
        天文一三年(一五四四) 僧教貞開基
 本尊は地蔵尊、江戸時代末までは禅宗寺院であったが明治維新(一八六八)後に浄土宗になった。境内に元禄八年(一六九五)建立の石造三社神号碑がある。当村の順光という者が天照皇大神宮、八幡大菩薩、春日大明神の三神号を刻み千日社参、旦那の現世安穏と往生菩提を祈念した。観音菩薩像は市指定文化財。平安時代に造像される。像形からは貴顕天部像ではないかとされる。
目川地蔵院・三社神号碑

一里塚跡
 東海道などの主要街道に設けられた距離を示す施設で、一里ごとに道の両端に塚が築かれていた。石垣で基礎を作り巨木を植え遠方から望見できるようになっている。ここでは椋が植えられていた。守山市今宿に県内では唯一当時のものが県史跡として残る。現地は姿をとどめない。


現在の一里塚



人 物

鎌田右内旧邸『布袋館』跡
  鎌田 右内
 阿波国徳島の人で代々藩に仕えたが、若年で藩を辞し京へ上り医学と儒学を学んだ。
 三〇歳の頃乞われて目川で漢方医を開業し傍ら経史を子弟に授けた。家を布袋館と言った。安永から享和(一七七二〜一八〇四)時代のことで、野洲郡(現:野洲市)や甲賀郡(現:甲賀市・湖南市)からも治療に来たという。当時の漢方医書や西洋医学書等百数十冊や百二十種程の漢方薬入りの薬種箱・薬研等が伝存する。

  奥村 菅次
 金銀細工の名人で、初代の壽景[天保一一年(一八四〇)没]は文化六年(一八〇九)藩主に認められ藩お抱えとなり膳所伊勢屋町に転居。二代、三代とも技量抜群でその金銀細工は精妙で菅次堂細工として賞賛された。遺作は大津市の篠津神社や長浜市の長浜祭曳山に残っている。明治になって三代目菅次が居を戻した。川辺の人との説もある。

  青木 桜渓
 明治一六年(一八八三)目川の俳人青玉(本名玄次郎、元治田村村長)の子に生まれる。本名は玄之助。早稲田大学に学び、のち演劇歌舞伎の演芸画報の編集に当たった。当時の原本は天理大学図書館に保管される。

名 木
 イヌマキ(専光寺)、イチョウ(専光寺)
 専光寺、大いちょうの木は幹の周り約五メートル、推定樹齢約三五〇年です。昔は下戸山からもこのいちょうの木が眺められ、葉の色づきなどから、農作業の目安にされるほどでした。
 戦後、上の方が切り取られ、今はその面影はありませんが、幹が真ん中で二つに裂けた現在でも色づき実をならしております。江戸時代中期頃、専光寺が火災にあったとされていますが、その時もしっかり生き残り、東海道を旅する人や江戸参勤交代の行列を毎日眺めていた生き証人です。
イチョウ イヌマキ

文化財
 市指定文化財 彫刻 木造伝観音菩薩像 所有者 地蔵院
 県指定無形文化財 小槻大社 花笠踊り

地区の様子
 新幹線より西の区域で企業が立地し、住宅が出来て目川住宅が誕生した。その後区画整理事業が実施されたことや、小柿道沿線に住宅がはりつき都市化の様相を呈している。金勝川以東の農地は圃場整備事業が完了し、整然とした農地になっている。

栗東民話より
 目川の砂ほりばばあ
 昔から、目川の、今の治田小学校の所にある竹やぶを、「てんころやぶ」と呼んでいました。なんでかというと、そのやぶにはてんころという動物が住みついていたからです。
てんころとは、たぬきといたちのあいのこのような動物で、酔っ払いなどがご馳走を持ってこのやぶの近くを通ると、そいつがやぶの中を走りまわって、やぶの中からガサガサと音を出すのです。そのため、酔っ払いなど、その音にびっくりしてごちそうを置いたまま逃げ出してしまうのでした。このあたりの人は、「砂ほりばばあが住んでる」といって恐れたものです。

目川村
 川辺村の西、金勝川(草津川支流)流域平地に立地。東海道に沿う街村で、草津宿と石部宿(現湖南市)の中継の立場茶屋が設置され、一里塚もあった。下戸山の小槻大社蔵の永徳二年(一三八二)の板札には、土豪青地氏の侍衆によって構成された同社の祭礼にかかわる「榊本之衆中」として当村に居住していた芝原左馬尉昌維の名がみえる。近世初期には豊臣秀吉の直轄領(前田文書)。慶長検地では高六七六石余(正徳三年「郷村高付帳」中村文書)。寛永石高帳では大坂定番稲垣重綱領一六五石余・旗本沼野領五一一石余。慶安高辻帳では越後三条藩領田一五〇石余・畑五石余・永荒八石余、沼野領田二四九石余・畑一三石余・永荒二四八石余。その後東・西の目川村に分村、元禄郷帳・天保郷帳では東目川村高四三三石余、西目川村高一六五石余。しかし天明村高帳では目川村として高五九八石余で三上藩(のちに和泉吉見藩)領。幕末まで同藩領。ケンペル「江戸参府旅行日記」に「村を流れている川からその名をとった目川村は400戸ばかりで、草津から四分の一里離れた次の村である」とみえる。元禄七年(一六九四)草津宿に目川村として助郷高五九八石余で出没(深尾文書)。亨保一〇年(一七二五)の改編でも同高で継承。慶応三年(一八六七)助郷高二三九石に減じられた(黒羽文書)。なお立場茶屋では目川田楽(菜飯田楽)が名物として売られてた(東海道名所図会)。
 用水は金勝川と同川から導水する目川池を利用。天保八年(一八三七)二保川、野洲川・草津川筋の新田開発に対し、用水の問題を理由に他村とともに反対している(川辺文書)。天保四年の調べでは仁兵衛・仁兵次が酒屋株をもっていたが、同七年には二軒ともこの株を譲渡している(小森文書)。浄土宗地蔵院には天文一三年(一五四四)教貞の開基と伝える。真宗大谷派専光寺は応仁元年(一四六七)光念が当地に道場を開いたのに始まるという。

東海道
 東海道は、草津宿で中山道と分岐し、栗東市域を約八キロメートルにわたって通り、石部宿にいたる。草津川を越えてはじめての集落は新屋敷で、新屋敷を出て南進し、草津川・金勝川合流地点の手前で大きく東にまがって、岡の集落に入る。岡は名物「目川田楽」をもって知られた。「目川田楽」は豆腐の味噌田楽と菜飯を食べさせる名物茶屋の称で、東海道目川立場を中心に諸国に展開した。『東海道名所図会』(寛政九年刊)に記される。江戸浅草や葦屋町をはじめ、「目川」を称する田楽茶屋が諸国に存在したのである。そのはじまりが近江国栗太郡岡村の三軒(目川村には目川田楽茶屋はなかった)、すなわち「京伊勢屋」、「小島屋」、「元伊勢屋」であり、いずれも東海道に南面して所在した。享保十九(一七三四)年成立の『近江興地志略』など、多くの他誌、道中記、名所図会類に紹介されて名高い。
 最も東に位置し、京に近いことから『京伊勢屋』の号で呼ばれたのが、西岡家である。『東海道名所図会』に挿図入りで紹介するのはこの店であり、画中の暖簾には「京いせや」と染め付けられている。同図を引いた歌川広重の保永堂版「東海道五十三次之内石部」に描かれたのも、京伊勢屋だということになる。西岡家は大正期まで「目川田楽」屋を続け、最後の店であった。戦前までは豆腐をあぶるひばちなど道具類も多く伝えていたという。現在も講招牌(文政七年から明治十六年のもの)が存在する。

『東海道名所図会』の目川田楽
上記図中文(目川とは村の名なれど、
今は名物の菜飯に田楽の豆腐
の名に襲ひて、何国にも目川の店多し)

目川田楽復元(左:菊酒、中:菜飯、右:田楽)
 「小島屋」は三軒の中間に位置し、寺田家の経営であった。径六・四から六・五センチメートル程度のぐい呑み茶碗を伝え、胴や見込みには「目川」「名物でんがく」「小じま屋」などと染め付けられている。享和元(一八〇一)年目川田楽茶屋の伊勢屋を訪れた大田蜀山人は、「目川とも女川とも染め付けたる茶碗」を土産に求めた。目川田楽の各店では、同様の茶碗で酒をすすめていたものと見られる。目川立場には銘酒「菊の水」があったと蜀山人『改元紀行』にある。
 「小島屋」と隣接する「元伊勢屋」は、岡村の中でも最も東寄りの、目川村境にあった。岡野家の店で、当主は代々五左衛門を名乗ったという。江戸中期から後期に活躍した文人画家・岡笠山は歴代五左衛門のひとりで、元伊勢屋経営の傍ら、画作に励んだ人であった。
 目川立場は、『東海道宿村大概帳』に「目川村岡村地内字目川」に所在したといい、「東海道分間延絵図」の表現などから位置を復元すると、目川・岡村境にまたがって跡地が比定できる。岡村側の村境には田楽茶屋の元伊勢屋があったのだから、元伊勢屋は「目川立場」の施設だったといえるのだろう。

伊勢屋
 目川の専光寺には真宗大谷派、応仁元(一四六七)年蓮如の教化をうけた釈光念が開いた道場という。専光寺からさらに東に行くと、東海道筋に、近年まで江戸中期在郷医師の邸宅を保存していた。鎌田右内(一七四四〜一八〇二)が建立し、「布袋館」と呼ばれた建築である。鎌田右内は諱を潜、字を叔ショウといい、雲庵と号した。阿波徳島の生まれで初め徳島藩に仕えたが、若年で藩を辞して京都に遊学、三十歳頃には目川に来住したものという。「布袋館」は田の字型四間取りの典型的農家住宅の平面構造を基本としながら、診察部屋や待合部屋と伝える居室の外、屋根裏に調剤部屋と思われる部屋があり、百目箪笥など右内使用の医療関係資料が多数保存されてきた。ただし、一九九四年に全面改築されて、旧プランを模した新建築に変わった。
 目川村には一里塚が築かれ、樹木には椋を植えていた(『東海道宿村大概帳』)。明治維新期に削平されて痕跡をとどめないが、鎌田右内旧邸の敷地内(四九二番地)に跡地の伝承があり、筋向かいの三九五番地と併せて、その跡と考えられる。
 地蔵院は東海道に面し、「東海道分間延絵図」の表現では門前に高札場のあったことがわかる。江戸期には禅宗に属していたが、明治維新後浄土宗に転じた。本尊は地蔵菩薩だが、十世紀の造像となる伝観音菩薩立像(栗東市指定文化財)も安置される。寺では観音として信仰されるが、像型からは貴紳天部形といえる。境内には元禄八(一六九五)年建立の石造三社神号碑が建つ。江州目川村の順光なる者が、天照皇太神宮、八幡大菩薩、春日大明神の三神号を刻み、千日社参詣旦那の現世安穏と往生菩薩を祈念したもの。